天下布武
天下布武(てんかふぶ)は、日本の戦国時代に織田信長が用いたとされる標語である。
概要[編集]
「天下布武」という語は、信長がその印判(朱印)に用いたことで広く知られている。この印判が初めて用いられたのは、永禄10年(1567年)に美濃国をほぼ平定し、本拠地を岐阜城に移した頃とされている。岐阜城の命名も、「天下布武」の意図を込めて岐山(周の文王が天下統一の拠点とした場所)と孔子の故郷である曲阜から一字ずつ取ったものとされる。
この語の解釈については諸説あるが、最も有力な説は「武力をもって天下(この場合の天下は、当時の日本全体を指すことが多い)を統一し、支配する」という意味である。しかし、「武」を「武家政権」や「武士による統治」と解釈し、「武家による天下の支配を確立する」と解釈する説もある。また、「布武」を「武を天下に広める」と解釈し、単なる武力統一だけでなく、武家政権による秩序の確立を目指すものと捉える見方もある。
「天下布武」の印判が押された文書は、領国内の安堵状や掟書、他国への外交文書など多岐にわたる。これは、信長が自身の支配権を内外に示し、その正当性を主張するためのプロパガンダとして「天下布武」の語を積極的に活用したことを示唆している。
歴史的背景[編集]
「天下布武」の標語が掲げられた背景には、当時の日本の政治情勢が大きく関わっている。室町幕府の権威が失墜し、各地で戦国大名が台頭する中で、中央集権的な国家統一を志す者は少なかった。信長は、既存の秩序にとらわれず、革新的な手法で天下統一を目指した。その理念を表す言葉として、「天下布武」は極めて象徴的な意味を持っていた。
信長は「天下布武」を掲げ、尾張国を統一した後、美濃国を平定し、さらに足利義昭を奉じて上洛を果たした。これは、自身の武力と権威を天下に示す行動であった。しかし、信長の天下布武の道は、比叡山焼き討ちや長島一向一揆など、武力による苛烈な鎮圧を伴うものであったため、後の世において賛否両論を呼ぶこととなる。
評価と影響[編集]
「天下布武」は、織田信長の政治的な意思と、彼が目指した国家像を端的に示す言葉として、後世に大きな影響を与えた。豊臣秀吉や徳川家康など、信長の後を継いで天下統一を成し遂げた者たちも、信長の残した「天下布武」の理念を多かれ少なかれ意識していたと考えられている。
現在でも「天下布武」は、信長の代名詞として、多くの歴史愛好家や研究者の間で議論の対象となっている。その解釈は多様であり、信長の人物像や彼の時代を理解する上で重要なキーワードとなっている。
豆知識[編集]
- 「天下布武」という言葉が記された最古の印判は、永禄10年(1567年)9月に正親町天皇へ贈られた信長記の奥書に見られるとされる。
- 信長がこの言葉を考案したとされるが、実際に誰が発案したかについては諸説ある。
- 「天下布武」の「武」を「文武両道」の「武」と解釈し、単なる武力統一だけでなく、文化的な発展も目指していたとする説も少数ながら存在する。
関連項目[編集]
参考文献[編集]
- 谷口克広『織田信長事典』新人物往来社、2001年。
- 藤田達生『信長と秀吉』講談社現代新書、2018年。
- 池上裕子『織田信長』吉川弘文館、2012年。