国家社会主義労働党
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国家社会主義労働党(こっかしゃかいしゅぎろうどうとう)は、肥後亨が選挙で使った党派名の一つ[1]。
肥後は1952年に日本国家社会主義民主青年同盟を結成[2][3](最高委員長・肥後亨)、後に国家社会主義労働党を結成した[3]。肥後は1952年3月の衆院東京六区補選では「日本国家社会民主青年同盟」、1952年10月および1953年4月の衆院東京一区では「国家社会主義労働党」、1958年5月の衆院東京一区では「革新自由民主党」、1959年4月の東京都知事選では「日本人民共和国」、1959年6月の参院東京地方区では「国際共産主義者同盟」の党派名を使用した[1]。東京都教育委員立候補の選挙公報では、路上に広げた星条旗を踏み越えさす運動やユニオンジャックに「党員同志」の大便をくるみエリザベス女王に献上するなどの国家主義運動を行ってきたと書いており、選挙スローガンでは反米を主張した[4]。木下半治は戦後に生まれた右翼団体を紹介する中で「“国家社会主義労働党”最高委員長として、「新ナチズム」を奉ずる肥後亨」を「アプレ派のうちの最大傑作(?)」と評している[4]。
国家社会主義日本労働者党は公式サイトの沿革において、1952年1月10日に「戦後初の日本の国家社会主義組織」である日本国家社会主義民主青年同盟が発足、2月29日に国家社会主義労働者党に改称(後に活動停止)、1982年4月20日に国家社会主義日本労働者党が発足したと主張している[5]。また国家社会主義日本労働者党は高畠素之と石川準十郎を「精神的・理論的指導者」とし、福田狂二(福田素顕)・西光万吉・赤松克麿の「唯一の正統な後継者」であると主張しているが、肥後亨については言及していない[5]。