上杉定勝

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上杉 定勝(うえすぎ さだかつ、慶長9年(1604年)5月5日 - 正保2年(1645年)9月10日)は、江戸時代初期の外様大名出羽国置賜郡米沢藩の第2代藩主信夫郡福島城・伊達郡梁川城・同保原城も持つ。

家族[編集]

父は上杉景勝で嫡男(ひとりっ子[1]。生母は桂岩院(四辻氏、大納言・四辻公遠の長女)。

治政[編集]

伊達郡の半田銀山の採掘を父・景勝より引き継ぎ、実務では保原城の大石氏が銀産出を飛躍的に伸ばし、「ハンダ」の語源となる。

また、領内では果実栽培を奨励し、自らも米沢城内に御菜園を設けた。福島ではを(現在も福島市の特産品)、梁川では、館山城下ではりんごが生産された。表高12万石の信達両郡は米成20万石、諸雑成2万石に達した(年貢は二公八民)。加えて学問も奨励し、福島城下町では和算が揮う[2]

善政を評価され、寛永3年(1626年)8月9日、左近衛権少将に昇る(同日任官した長州藩毛利秀就の右近衛権少将より上位)。 正保2年(1645年)9月10日、死去。享年42。嫡男・綱勝が跡を継ぐ。

人物[編集]

母が公卿[3]の出自であるため女性的な美貌で、江戸城では同僚の国持大名からよく手をつながれたという[4]。ただし定勝には同性愛の趣味はなく、キリシタン禁止と共に藩内に男色禁止の「御条目」は発布している。・富子(参姫)も父譲りの美形で吉良義央とは恋愛結婚である。

官位[編集]

家格[編集]

  • 国主(国持大名)・大広間

著作・文書[編集]

  • 『上杉定勝書状』(桐沢・大石・千坂氏宛などの書簡)
  • 『寛永御条目』(定勝が家臣に向けた藩士としての訓戒)

脚注[編集]

  1. それでも定勝の血脈は旧宮家・摂関家・公家華族にも伝わっている。
  2. 福島城下の寺社には数学者が奉納した和算額が現存している。
  3. 四辻家は正三位大納言で、中納言の景勝と同じ清華成の家柄。
  4. 今福匡『東国の雄 上杉景勝』(角川新書、2021.7)

関連項目[編集]