ルイ15世
ルイ15世(英:Louis XV)とは、フランス・ブルボン朝の4代目国王。渾名は最愛王。
生涯[編集]
親政開始まで[編集]
1710年2月15日、ルイ14世の孫ルイ・ド・フランスとその妃マリー・アデライード・ド・サヴォワの間に生まれる。1715年に曽祖父のルイ14世が崩御したが、既に祖父と父も亡くなっていたので5歳のルイがフランス王に即位した。
1725年、元ポーランド王女のマリー・レクザンスカと結婚。6歳年上で美しい彼女にルイ15世は夢中となり、マリーは1727年から1737年までの10年間で王太子ルイ・フェルディナン(ルイ16世の父)を含む10人もの子供を産んだ。しかし、出産のペースが早すぎたため体調を崩してしまい、ルイはマリーと寝屋を共にすることを禁止されてしまう。性欲旺盛だったルイ15世は代わりとして多数の愛妾を作り始めた。中でもポンパドゥール夫人はルイのお気に入りとして絶大な影響力を持ち、政治にまで介入するようになった。
度重なる失政[編集]
ルイ15世は君主としては無能だった。1723年にブルボン公を宰相に任命するが、経済政策に失敗して国民に失望された。1726年にブルボン公を罷免してフルーリー枢機卿を据えるとある程度状態は好転する。1730年代にはポーランド継承戦争に介入してロレーヌを領土に加えた。1743年にフルーリー枢機卿が死去すると33歳で親政を開始。プロイセンのフリードリヒ大王と組んでオーストリアと戦う(オーストリア継承戦争)が大した戦果は得られなかった。1756年、ポンパドゥール夫人の働きかけにより長年の宿敵であったオーストリア・ハプスブルク家の女帝マリア・テレジアと同盟を結び(外交革命)、七年戦争に参戦した。フランス軍はプロイセン及びその同盟国イギリスとヨーロッパや北米植民地、インドで争った。しかし欧州戦争ではフリードリヒ大王相手に苦戦し、インドではイギリス軍にプラッシーの戦いに敗北、北米のフレンチ・インディアン戦争では序盤は優勢だったものの最終的には敗戦した。1763年にパリ条約が締結され、カナダ・ルイジアナなど海外植民地の大半を喪失した。
崩御[編集]
七年戦争での敗北に前後してポンパドゥール夫人や王太子ルイ・デェルディナンなど親しい者を相次いで亡くしたルイ15世は次第に衰弱していき、1774年5月7日、天然痘に罹患して崩御した。享年64。19歳の孫ベリー公がルイ16世として即位した。彼の治世を通じてフランスの財政状況は改善不可能なレベルに悪化し、ブルボン朝は1789年のフランス革命に向けて破滅の道を歩むこととなる。