ポール・リース=クヌーセン

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ポール・ハインリッヒ・リース=クヌーセン(Povl Heinrich Riis-Knudsen、1949年10月29日 - )は、デンマークネオナチ

60年代後半に国家社会主義者世界連合(WUNS)の書記長を務めた[1]。1967年にジョージ・リンカーン・ロックウェルが射殺された後、アメリカ・ナチ党党首・WUNS議長を引き継いだマティアス・コールによってWUNSの書記長に任命されたが、すぐに宗教的な立場をとるコールと対立して書記長を辞任したとされる。WUNSを離れた後もドイツイギリスアメリカの極右の指導者と強い結びつきを保った[2]。1970年にデンマーク国家社会主義青年団(DNSU)を結成し、1983年にデンマーク国家社会主義運動(DNSB)へと発展させた[2]

1983年にパンフレット『国家社会主義――生物学的世界観』(National Socialism: The Biological World View)を刊行し、ナチズムを自然の法則に基づく生物学的イデオロギーと捉え、社会には人種の衛生を守るために生態環境を保全する責任があると主張した[2]。同書はデンマークのネオナチの間でカノン的なテキストとされ、ヨーロッパのほとんどの言語に翻訳された[2]。同時期のDNSBはヨニ・ハンセンをはじめとする新世代のメンバーが影響力を示し始め、環境問題に積極的に取り組んだ[2]

1984年にパンフレット『国家社会主義――左翼運動』(National Socialism: A Left Wing Movement)を刊行し、「右翼から良いものが生まれたことがないのは歴史的事実である。もしもコペルニクスケプラージョルダーノ・ブルーノガリレオのような革命家がいなかったならば、私たちは今でも地球が平面で宇宙の中心にあると信じていただろう。資本主義が発展したとき、エスタブリッシュメントは産業革命によって生まれた社会問題を解決しようとはせず、新しく生まれた労働者階級を容赦なく搾取した。その結果、マルクス主義思想に代表される革命思想が生まれた。そして過去100年間に見られた必要かつ公正な社会的改良はすべて、左翼からの激しい圧力の後にのみ導入されたものであり、右翼保守派は常に後退し、哀れにも自分たちの利益をできるだけ守ろうとしていた」と述べた[3]

DNSBのリーダーであったが、1992年にキリスト教徒のパレスチナ難民との短期間の婚約が公になり、「人種混合」を理由にDNSBから追放された[4]。その後はオールボーでNordland-Verlagという出版社を経営し、反ユダヤ主義の文献を翻訳している[4]。自身が経営する出版社の出版物はデンマーク国外でも出版されており、北欧諸国で活動するネオナチ組織「北欧抵抗運動」はたびたび出版物に言及している[2]

2000年8月に「イギリス国民党のアメリカの友」(AFBNP)のリーダーであるマーク・コッテリルと会談した[1]。AFBNPのメンバーで「ニュー・オーダー」の元スポークスマンであるマーティン・カー(Martin Kerr)は友人である[1]

ロシアのウクライナ侵攻では、ロシアを擁護している[5]

出典[編集]

  1. a b c The Ties That Bind Page 3 Southern Poverty Law Center
  2. a b c d e f Claus Bundgård Christensen「Ecofascism and Green Nazis in Denmark 1920–2020」Scandinavian Journal of History、2024年12月6日
  3. National Socialism: A Left-Wing Movement
  4. a b Overview of Danish far right Institute for Jewish Policy Research
  5. В поддержку России Riis-Knudsen Povl Heinrich в статье «Krig er ikke smukt at se på» -19.04.2022- Zen News

関連項目[編集]