ポーランド・リトアニア共和国

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ポーランド・リトアニア共和国
名称
国の標語と国歌
基本情報
首都 クラクフ(1596年まで)、ワルシャワ(1596年以降)
公用語 ポーランド語ラテン語外交)、ルーシ語東スラヴ語群)、リトアニア語
人口/面積
経済
通貨 ズウォティ
コード
政府
歴史
備考

ポーランド・リトアニア共和国(ポーランド・リトアニアきょうわこく、ポーランド語: Rzeczpospolita Obojga Narodówリトアニア語: Abiejų Tautų Respublikaラテン語: Res Publica Utriusque Nationis)は、1569年ルブリン合同によって成立し、1795年第3次ポーランド分割によって消滅した中央ヨーロッパおよび東ヨーロッパに存在した多民族国家である。正式名称は「ポーランド王国とリトアニア大公国」(ポーランド語: Królestwo Polskie i Wielkie Księstwo Litewskie)。「シュラフタの共和国」とも称される、特異な選挙王制貴族共和制を特徴とした国家であった。

歴史[編集]

成立と最盛期[編集]

ポーランド・リトアニア共和国の萌芽は、1386年ポーランド女王ヤドヴィガリトアニア大公ヨガイラの結婚に遡る。これにより、ポーランド王国リトアニア大公国ヤギェウォ朝のもとで同君連合を結んだ。しかし、この関係は常に強固なものではなく、特にリトアニア大公国の独立志向は根強かった。

転機が訪れたのは16世紀中葉である。東方ではモスクワ・ロシアの脅威が台頭し、リトアニア大公国は自国の防衛能力に限界を感じていた。一方、ポーランド王国側もより強固な連合を望んでいた。こうした背景から、1569年7月1日、ルブリンにおいて両国の完全な合同を定めたルブリン合同が締結された。これにより、ポーランド・リトアニア共和国が正式に成立した。合同により、単一のセイム国会)と単一の国王が選出されることとなった。この国王は、ポーランド国王リトアニア大公を兼ねるものとされた。

ルブリン合同後、共和国は「黄金の自由」と呼ばれるシュラフタ貴族)の広範な特権を特徴とする独特の政治体制を発展させた。国王は選挙王制によりシュラフタ全体によって選出され、国王の権力は極めて制限されていた。シュラフタはリベルム・ヴェト(自由拒否権)を行使することができ、これはセイムにおける全会一致を原則としたため、しばしば国政の停滞を招いた。しかし、同時にこれはシュラフタによる中央集権化への抵抗と、個人の自由の尊重を意味するものでもあった。

共和国は17世紀前半に最盛期を迎える。広大な領土を有し、その範囲はバルト海から黒海にまで及び、西ヨーロッパ東ヨーロッパの文化が交錯する一大勢力となった。特に穀物の輸出で繁栄し、「ヨーロッパの穀倉地帯」として知られた。文化的にも、ポーランド・ルネサンスポーランド・バロックが花開き、ニコラウス・コペルニクスヤン・コハノフスキイグナツィ・モシツキといった多くの知識人や芸術家を輩出した。また、多民族・多宗教国家であり、カトリックプロテスタント正教会ユダヤ教イスラム教など、様々な信仰が比較的共存していた。これは当時のヨーロッパにおいては稀な特徴であった。

衰退と分割[編集]

しかし、共和国の独特な政治体制は、17世紀中葉以降、国内外からの脅威に直面する中でその弱点を露呈し始める。1648年にウクライナで勃発したフメリニツキーの乱は、コサックポーランド貴族の間の社会経済的緊張に加え、正教会とカトリックの宗教的対立が絡み合った大規模な反乱であった。この反乱はロシア・ツァーリ国の介入を招き、1654年ペレヤスラウ協定が締結されると、ウクライナの大部分がロシアの支配下に入った。

さらに、1655年から1660年にかけてスウェーデンとの間で繰り広げられた大洪水時代は、共和国に壊滅的な打撃を与えた。スウェーデン軍による国土の荒廃と、それに続く飢饉や疫病は人口の激減を招き、経済的基盤を大きく揺るがした。この時期、共和国はロシアスウェーデンオスマン帝国といった周辺列強からの度重なる侵攻に晒され、国力は著しく疲弊した。

18世紀に入ると、共和国の衰退は一層顕著となる。「黄金の自由」の象徴であったリベルム・ヴェトは、国政を麻痺させる要因となり、中央政府は機能不全に陥った。周辺の強大化するプロイセン王国ロシア帝国ハプスブルク帝国は、この弱体化した共和国を自国の勢力圏に組み込もうと画策するようになる。特にロシア帝国は、共和国の内政に深く干渉し、自国の影響下にある国王候補を擁立するなど、実質的な保護国化を進めた。

事態は1772年に決定的な局面を迎える。ロシア、プロイセン、ハプスブルクの3国は、共和国の領土を分割する第1次ポーランド分割を断行した。これにより、共和国は広大な領土と多くの人口を失った。

この危機的状況に対し、改革の機運が高まる。特にスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ国王のもとで、啓蒙思想の影響を受けた改革派が台頭した。彼らは「5月3日憲法」を制定し、リベルム・ヴェトの廃止や世襲王制の導入など、近代的な国家改革を目指した。これはヨーロッパ初の成文憲法であり、世界でもアメリカ合衆国憲法に次ぐものであった。

しかし、この改革は周辺列強の警戒を招いた。ロシア女帝エカチェリーナ2世は、ポーランドの改革が自国の影響力を弱めると考え、1792年ロシア・ポーランド戦争を仕掛けた。改革派は敗北し、ロシアとプロイセンは1793年第2次ポーランド分割を強行した。これにより共和国の領土はさらに縮小し、独立国家としての存続が危ぶまれる事態となった。

絶望的な状況の中、タデウシュ・コシチュシュコ1794年コシチュシュコの蜂起を指導し、最後の抵抗を試みた。しかし、装備と規律に勝るロシア・プロイセン連合軍の前に敗北を喫した。

最終的に、1795年10月24日、ロシア、プロイセン、ハプスブルクの3国は第3次ポーランド分割を断行し、ポーランド・リトアニア共和国は地図上から完全に消滅した。ポーランド人およびリトアニア人にとっては、その後の123年間の国家なき時代が始まることとなる。

政治体制[編集]

ポーランド・リトアニア共和国の政治体制は、貴族共和制Rzeczpospolita Szlachecka)または選挙王制と称される独特のものであった。

  • 国王:国王は世襲ではなく、全てのシュラフタによる自由な選挙wolna elekcja)によって選出された。国王の権力は厳しく制限されており、セイムの同意なしに重要な決定を下すことはできなかった。
  • セイム国会にあたるセイムは、元老院Senat)と代議院Izba Poselska)から構成された。元老院は高位聖職者や県知事などによって構成され、代議院は各地域のセイミク(地方議会)から選出された議員によって構成された。
  • 黄金の自由シュラフタに与えられた広範な特権の総称。これには、国王の選挙権、セイムにおけるリベルム・ヴェト(いかなる法案も一人の議員の反対によって否決できる権利)、国王に対する抵抗権などが含まれた。これにより、シュラフタは自らの自由と特権を保障された一方で、国家としての迅速な意思決定を阻害する要因ともなった。
  • ヘンリク条項1573年に制定された国王とシュラフタの間で交わされた協定。国王はこれを遵守する義務があり、国王の権力を抑制する役割を果たした。

社会と経済[編集]

共和国の社会は、大きく分けてシュラフタ(貴族)、聖職者都市民(ブルジョワジー)、農民の階層から成り立っていた。人口の約10%を占めるシュラフタが社会の支配層であり、広大な土地を所有し、政治、経済、軍事のあらゆる面で特権を享受した。

経済的には、農業が基盤であり、特に穀物生産が盛んであった。ヴィスワ川などの河川を利用したバルト海貿易によって、穀物や木材西ヨーロッパに輸出され、共和国に富をもたらした。しかし、シュラフタによる農奴制の強化と、都市の発展の遅れは、後年の国家の脆弱性の一因ともなった。

豆知識[編集]

  • ポーランド・リトアニア共和国は、その歴史上、イエズス会の影響力が非常に強かった国の一つとして知られています。
  • 共和国の国章は、ポーランドの白鷲とリトアニアのヴィーティス馬に乗った騎士)を組み合わせたものでした。
  • ワルシャワ王宮は、元々はリトアニア大公の居城でしたが、1596年に首都がクラクフからワルシャワに移された際に本格的な王宮となりました。
  • ポーランド・リトアニア共和国は、当時のヨーロッパで最も大規模なユダヤ人コミュニティを擁しており、彼らは独自の自治権を持っていました。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • イェジー・コウォジェイチク『ポーランド史』山川出版社、1997年。
  • 成瀬治他編『世界歴史大系 東欧史』山川出版社、2015年。
  • 伊東孝之他編『東欧を知る事典』平凡社、2015年。