ペトロ 初代ローマ教皇
ペトロ(ギリシア語: Πέτρος, ラテン語: Petrus)は、イエス・キリストの12使徒の一人であり、キリスト教の伝統において初代ローマ教皇と見なされる人物である。元の名はシモン(ヘブライ語: שמעון, Shim‘on; ギリシア語: Σίμων, Simōn)といい、イエスから「ケファ」(アラム語: כיפא, Kēpā'、岩の意)の称号を与えられ、これがギリシア語で「ペトロス」(岩の意)と訳されたことに由来する。
生涯[編集]
初期[編集]
ペトロはガリラヤのベトサイダ出身の漁師であったとされる。福音書によれば、彼の兄弟であるアンデレと共に、ガリラヤ湖で漁をしている最中にイエスと出会い、その招きに応じて弟子となった。彼の元の名はシモンであったが、イエスから「あなたはペトロ、私はこの岩の上に私の教会を建てるであろう」と告げられ、特別な役割を担うこととなる。この「岩」を巡る解釈は、カトリック教会とプロテスタントの間で異なる見解がある。
イエスの弟子として[編集]
ペトロはイエスの弟子たちの中でも特に中心的な役割を果たした人物の一人である。イエスの変容やゲツセマネの祈りなど、イエスの重要な場面に立ち会った。彼はしばしば衝動的な性格として描かれ、イエスが捕縛された際にはイエスを知らないと三度否定したが、その後に深く悔い改めたとされる。
復活後の活動[編集]
イエスの復活後、ペトロは弟子たちの指導者として活動した。『使徒言行録』によれば、ペンテコステの日に説教を行い、多くの人々がキリスト教に改宗した。彼はエルサレムの初代キリスト教共同体の中心人物となり、ユダヤ教徒だけでなく異邦人への宣教の重要性を認識するに至った。特に、百人隊長コルネリウスへの洗礼は、異邦人伝道の大きな転換点となった。
ローマでの活動と殉教[編集]
キリスト教の伝統によれば、ペトロは晩年にローマへと赴き、そこで宣教活動を行ったとされる。彼はローマで初代の司教となり、これがローマ教皇の起源と見なされている。
ペトロはネロ帝によるキリスト教徒迫害の際に捕らえられ、殉教したと伝えられている。伝承によれば、彼はイエスと同じように十字架にかかるのは畏れ多いとして、逆さ十字にかけられて処刑された。その殉教地はバチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂のある場所とされ、大聖堂の下には彼の墓とされる場所が存在する。
著作[編集]
新約聖書には、ペトロが著者とされる『ペトロの手紙一』と『ペトロの手紙二』の2つの書簡が収められている。これらの書簡は、初期キリスト教共同体に対する信仰の教えや励まし、警告などが記されている。ただし、『ペトロの手紙二』については、その著者性に関して学術的な議論が存在する。
崇敬[編集]
ペトロはカトリック教会、正教会、東方諸教会、聖公会、ルーテル教会など、様々なキリスト教の教派で聖人として崇敬されている。カトリック教会においては、ローマ教皇の使徒継承の根拠となる最も重要な使徒とされ、聖ペトロと聖パウロの祝日(6月29日)には盛大な祝祭が行われる。
彼は「天国の鍵」を持つ者として描かれることが多く、これはイエスがペトロに「天国の鍵」を与えると語ったことに由来する。また、漁師の守護聖人としても知られている。
豆知識[編集]
- ペトロがイエスを三度否定した際に鶏が鳴いたという聖書の記述から、鶏はペトロを象徴する動物の一つとされている。
- サン・ピエトロ大聖堂は、カトリック教会の総本山であり、ペトロの墓の上に建てられたとされる。
- 中世ヨーロッパでは、ペトロの祝日は「聖ペトロの鍵日」と呼ばれ、農作業の開始の目安とされた。
関連項目[編集]
参考書籍[編集]
- 山口雅也『聖書の物語』(岩波新書、2001年)
- 青野太潮『キリスト教入門』(講談社現代新書、2007年)
- 宮本久雄『ローマ教皇の歴史』(中公新書、2010年)