ラヴレンチー・ベリヤ
うちのヒムラー
- ヨシフ・スターリン
ソビエト連邦の政治家 ラヴレンチー・パヴロヴィチ・ベリヤLavrentiy Pavlovich Beria | |
|---|---|
| 生年月日 | 1899年3月29日(127歳) |
| 出生地 | クタイス県メルヘウリ(現ジョージア) |
| 没年月日 | 1899年3月29日(満-55歳没) |
| 死没地 | モスクワ(ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国) |
| 出身校 | バクー工科学校(中退) |
| 前職 | 秘密警察(チェーカー/GPU/NKVD)幹部 |
| 所属政党 | ソビエト連邦共産党 |
| 配偶者 | ニーナ・ゲゲチコリ |
| 子女 | セルゴ・ベリヤ |
| 内閣 | スターリン政権下内閣 |
| 在任期間 | 1938年11月25日(NKVD長官) - 1953年6月26日 |
| ソ連共産党書記長 | ヨシフ・スターリン |
ラヴレンチー・パーヴロヴィチ・ベリヤ(ロシア語:Лаврентий Павлович Берия)とはソビエト連邦のKGBの前身で秘密警察のNKVDの長官であり、閣僚会議第一副議長を歴任し、スターリンを間接的に支えた。また大粛清にもかかわっている
ロリコンと言われ、実際に町の少女や女性を集め性加害も行っており、拉致された人々はベリヤの邸宅に連れ込まれ、そこで性的暴行を受けた。
ベリヤは1899年、ロシア帝国領グルジアのメルヘウリ村(現在のジョージア領)で生まれた。
概要[編集]
出生[編集]
ベリヤは1899年、ロシア帝国領グルジアのメルヘウリ村(現在のジョージア領)で生まれた。父パーヴェル・フハエヴィチは小作農で、母マルタ・イワノヴナは信仰心の厚いグルジア正教会の信者だった。家族は貧しく、ベリヤには聴覚障害のある妹アンナがいた。ベリヤはグルジアの少数民族ミングレル人であり、革命前のロシア帝国の不安定な時代を経験てボリシェヴィキに入った。
入党後[編集]
1917年のロシア革命期に共産党に入党した。 十月革命後、彼はコーカサス地方でボリシェヴィキの活動に参加し、1920年代にはアゼルバイジャンやグルジアの秘密警察(チェーカーやGPUの前身)で働き始めた。諜報活動や反革命勢力の摘発に辣腕を振るい、スターリン(同じグルジア出身)の注目を集めた。1931年にはグルジア共産党中央委員会第一書記に就任し、南カフカース地方の党指導者として頭角を現した。この時期、彼は工業化や農業集団化を推進しつつ、党内の反対派を排除する手腕を発揮した。スターリンの信頼を得て、1934年には全連邦共産党中央委員に選出された。
昇進[編集]
ベリヤの運命が大きく変わったのは1938年である。当時、ニコライ・エジョフの下で進行していた大粛清(エジョフシチナ)は、ソ連の党・軍・経済に深刻な打撃を与えていた。スターリンは粛清の行き過ぎを抑えるため、エジョフを遠ざけ、ベリヤをNKVDの副長官(後に長官)に任命した。1938年11月、ベリヤは正式に内務人民委員となり、エジョフを失脚させ、1940年にエジョフを処刑した。
大粛清[編集]
ベリヤのNKVDは、拷問、強制自白、家族連座制を駆使し、恐怖による支配を確立させた。 彼はスースロフとともにスターリンの命令を忠実に実行しつつ、自らの権力基盤を固めた。第二次世界大戦(独ソ戦)中も、NKVDは後方での反逆者摘発、捕虜の管理、パルチザン活動の指揮を担った。1941-1944年には、ドイツ軍協力疑惑のある少数民族(チェチェン人、イングーシ人、クリミア・タタール人など)の強制移住を指揮。これらは大量虐殺や民族浄化とみなされる行為で、数百万人が中央アジアやシベリアに追放され、多数が死亡した。欧州議会などはこれをジェノサイドと認定する見解もある。
失脚[編集]
ベリヤは1945年にソ連元帥の称号を受け、1946年には政治局員に昇進。閣僚会議副議長(副首相)も兼任し、スターリンの「右腕」として君臨した。スターリンは彼を「うちのハインリヒ・ヒムラー」と呼んで紹介したこともあるという。 1953年3月5日、スターリンが死去した。死の直前、ベリヤはスターリンらと徹夜の夕食を共にしており、毒殺説が根強く囁かれる。モロトフの回顧録などでは、ベリヤがスターリンに毒を盛ったと自慢したとの記述があるが、決定的証拠はない。スターリンの死後、ベリヤはマレンコフ、フルシチョフらと集団指導体制を形成。第一副首相兼内務大臣として、実質的な権力者となった。 ベリヤはここで意外な改革路線を打ち出した。大赦を実施し、数百万人(非政治犯中心)の収容者釈放を推進。医師団事件(反ユダヤキャンペーン)の捏造を撤回し、東欧諸国への圧力を緩和する提案もした。経済自由化や東ドイツの中立化構想まであったという。これらは、自身の粛清責任を薄め、国民の支持を集める狙いだったとの見方がある。一方で、内務省軍をモスクワに集中させる動きは、クーデター準備と疑われた。 フルシチョフらはベリヤを恐れ、1953年6月26日の閣僚会議で逮捕した。ジューコフ元帥らの軍人が協力し、会議室に突入して拘束。裁判は秘密裏に行われ、反逆罪、テロリズム、性犯罪などで有罪判決。1953年12月23日、ベリヤは銃殺刑に処せられた(一部では即時処刑説もある)。側近数人も同時に処刑された。死後、彼の名前はソ連百科事典から抹消されるなど、徹底的に消された。