ローマ皇帝一覧/ユリウス=クラウディウス朝

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ティベリウスから転送)
ナビゲーションに移動 検索に移動
ローマ皇帝一覧 > ローマ皇帝一覧/ユリウス=クラウディウス朝

この項目では、ローマ帝国の歴代皇帝(アウグストゥスからネロまで)を解説する。

アウグストゥス[編集]

Augustus
本名:ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス
在位:BC27 - AD14

紀元前63年9月23日共和制ローマの首都ローマで生まれる。病弱であったが、大叔父であるカエサルにどの才能を見込まれ養子となった。紀元前44年、独裁色を強めるカエサルが反発した元老院議員らに暗殺されると、オクタウィアヌスは彼の後継者として頭角を表し始めた。翌年カエサルの部下アントニウスレピドゥスと組んで第二回三頭政治を開始、紀元前42年のフィリッピの戦いでブルトゥスら共和派を破りカエサルの仇討ちを果たした。しかし、アントニウスがオクタウィアヌスの姉オクタウィアとの婚姻を取り消してエジプト女王クレオパトラ7世と愛人関係を結んだことで両者の関係は悪化。紀元前33年、元老院と市民の支持を得たオクタウィアヌスは遂にアントニウスへ宣戦布告した。紀元前31年アクティウムの海戦でローマ軍はエジプト軍を破り、クレオパトラとアントニウスを自害へ追い込んだ。

政敵を全て排除したオクタウィアヌスは紀元前29年、元老院から「プリンケプス(市民の第一人者)」「アウグストゥス(尊厳者)」の称号を得た。一般的にはこれがローマ帝政の始まりとされる。アウグストゥスは表向きは元老院を尊重する態度を見せ、カエサルと同じ轍を踏むことはなかった。とはいえ実際はコンスル(執政官)の権限を拡大する形で独裁体制を強めており、後の皇帝制度の基礎が作られた。アウグストゥスは積極的な対外進出も行ったが、トイトブルク森の戦いゲルマン人に大敗して以降は抑え気味になった。紀元後14年8月19日、ポンペイ近郊の町で亡くなった。享年75。妻リウィアの連れ子ティベリウスが後を継いだ。

ティベリウス[編集]

Tiberius
本名:ティベリウス・ユリウス・カエサル
在位:14 - 37

紀元前42年11月16日に生まれる。母リウィアが夫との死別後アウグストゥスと結婚したことで養子となり、14年にアウグストゥスが死去すると遺書で後継者に指名された。治世前半は経済の活性化や汚職の取り締まりに精を出すが、やがて人間関係に悩まされカプリ島に引き篭もるようになった。晩年は暴君化し政敵を次々と粛清。カリグラを後継者に指名し、37年3月16日に78歳で死去した。なお、イエス・キリストが磔にされたのは彼の治世下の出来事である。

カリグラ[編集]

Caligula
本名:ガイウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス
治世:37 - 41

12年8月31日に生まれる。ティベリウスが死去すると後継者に指名され、24歳でローマ皇帝に即位した。善良な性格で知られており、当初は市民に人気が高かったが病気で倒れてからは豹変。暴君化し親族や市民を次々と処刑、贅沢三昧で大規模建築事業を繰り返したためローマは財政危機に陥った。41年1月24日、演劇鑑賞後に近衛兵らによって殺害された。享年28。

クラウディウス[編集]

Claudius
本名:ティベリウス・クラウディウス・ネロ・カエサル・ドルスス
治世:41 - 54

紀元前10年8月1日にガリア属州(現フランス)で生まれる。41年に甥のカリグラが殺害されると、カーテンの裏に隠れている所を近衛隊に発見され、その場で皇帝に推挙された。クラウディウスは有能な皇帝であり、カリグラが破綻させた財政を再建、グレートブリテン島に遠征して南部を支配下に置いた。ところが54年10月13日、毒キノコを食べて死亡した。享年63。4番目の妻アグリッピナの連れ子ネロが後を継いだ。

ネロ[編集]

Nero
本名:ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス
在位:54 - 68

37年12月15日に生まれる。幼くして父を亡くし、8歳の時にカリグラによってネロの一家は追放された。やがてカリグラが暗殺されると許され、母アグリッピナはクラウディウス帝と再婚。ネロは養子となり、54年にクラウディウスが死去すると後継者として新皇帝に即位した。治世当初は家庭教師でもある哲学者セネカらの補佐を受け安定した統治を行っていた。しかし60年ごろを境に暴君化し、母アグリッピナを殺害したうえにセネカを自死に追い込んだ。65年には些細な口論で妻サビナに激昂し、妊娠中の彼女の下腹部を蹴って母子もろとも殺害した。これには流石に後悔したのか妻に似た容姿の男の奴隷を見つけ出し、去勢して妻にしたという。

ネロの事績で最も有名なのはキリスト教への迫害である。64年、ローマで大火が起こり、街の大部分が焼失した。市民の間では建築好きのネロが放火したのではないかという噂が広がった。ネロは大火をキリスト教徒の仕業と決めつけ大規模な弾圧を敢行。初代ローマ教皇ペテロや伝道師パウロがこれにより殉教したとされる。68年、ガリア属州で反乱が起き、元老院もこれに同調したことでネロは四面楚歌に陥った。6月9日、反乱軍が迫る中ネロは剣で自らの喉を刺して自害した。享年30。反乱軍が擁立したガルバが皇帝に即位した。

関連項目[編集]