エリザベス1世

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エリザベス1世(英:Elizabeth I)とは、イングランド・テューダー朝の6代目国王。生涯独身を貫いたことから「処女王(英:Virgin Queen)」の渾名をあるが、愛人が複数いたため恐らく処女ではない

即位まで[編集]

1533年9月7日に生まれる。父はヘンリー8世、母はその2番目の王妃アン・ブーリン。エリザベスが2歳の時の1535年、母アンが姦通と反逆の冤罪で処刑され、エリザベスは庶子の身分に落とされた。ただ、姉のメアリーと違って時々ヘンリー8世との面会も許されていたという。1543年、ヘンリーの6人目の王妃キャサリン・パーの働きかけによりエリザベスの王位継承権が復活した。エリザベスとキャサリンは親密な関係となり、ヘンリー8世の崩御後彼女はキャサリンとその再婚相手トマス・シーモアの元に預けられた。なお、この時エリザベスはトマスと関係を持ったとされている。

1553年に姉のメアリーがメアリー1世として即位。カトリックのメアリーの即位に対し各地でプロテスタントが反乱を起こしたが、全て鎮圧された。これらの反乱の首謀者がエリザベスを新王に担ごうとしていたことが発覚し、一時処刑の危機に立たされる。しかし決定的な証拠が見つからなかったことでメアリー1世は妹を処刑することができなかった。メアリーは暴政により国民に失望され、若く美しいエリザベスの支持が広がっていった。1558年にメアリーが在位5年で崩御すると、唯一の王位継承者だったエリザベスが女王に即位した。

スペインに勝利[編集]

王座についたエリザベスは直ちに宗教問題の解決に取り掛かった。1559年に統一法が制定され、カトリック儀礼とプロテスタント教義の折衷であるイギリス国教会が確立された。1568年スコットランドで反乱が起き女王メアリー・ステュアートイングランドに亡命してきた。この頃からメアリーは自身がヘンリー7世の曾孫であることから、一度庶子に落とされたエリザベスよりも自分の方が正当な王位継承者だと主張し始めた。メアリーは反エリザベス派のカトリック貴族と協力し、エリザベス1世を廃位して王位に就けようと画策したが、エリザベスの腹臣ウォルシンガム卿の暗躍によりクーデター計画は露見。メアリーらは逮捕、斬首された。

しかし、カトリックの元女王を処刑したことでエリザベスは国内外から批判を浴び、特にスペインフェリペ2世との関係が悪化した。エリザベスはスペインと戦争中のネーデルランドを支援し、海賊に私掠特許状を与えてスペイン船を攻撃させた。激怒したフェリペ2世はイングランドを討伐するため大艦隊の派遣を決意。1588年、英西両軍はグラヴリーヌ沖で激突。小回りの効く海賊船を駆使したイングランド軍の火炎攻撃により、スペインの無敵艦隊(アルマダ)は壊滅した。これ以降太陽の沈まない国と呼ばれたスペインは衰退の一途を辿り、変わってイギリスオランダが世界帝国としての発展の道を歩むこととなる。

善き女王[編集]

スペインを破ったエリザベスはイングランド経済の発展にも力を入れ、1600年イギリス東インド会社を設立した。翌年には囲い込みにより土地を失った農民を救うためエリザベス救貧法を発布した。しかし、アイルランドでの反乱と増税の頻発による経済状況の悪化によりエリザベス1世の人気は衰えていった。1603年3月24日に崩御。享年69。

エリザベスには子供がいなかったので、かつて処刑したメアリー・ステュアートの息子であるスコットランド王ジェームズ1世を後継者に指名した。これによりテューダー朝は断絶しステュアート朝が創始され、イングランドとスコットランドは同君連合の形で事実上統一された。ステュアート朝下の悪政に喘いだ民衆はエリザベスを讃え、「我らの善き女王ベス」などと呼んだ。

関連項目[編集]