アパルトヘイト
アパルトヘイト (アフリカーンス語: apartheid) とは、アフリカーンス語で「分離」「隔離」を意味する言葉であり、南アフリカで行われていた白人と非白人の人種隔離政策のことを指す。この政策は、特に世界に影響を与え、最も強力に推進された人種差別である。
内容と歴史[編集]
確立以前[編集]
1913年、南アフリカにおいて原住民土地法で、初めてアパルトヘイトという言葉が現れ始める。だがまだ広く使われおらず、1948年に、居住地区条項が制度的に確立した際からアパルトヘイトという言葉がよく使われるようになった。これは純正国民党政権が誕生したためである。純正国民党は南アフリカ連邦時代から存在する、このような似ている制度を参考に作った。
確立[編集]
国民党政権の誕生以前にも「鉱山労働法」「原住民土地法」「産業調整法」「背徳法」などの差別的な法律が存在していたが、政権を握った後は「集団地域法」「人口登録法」「投票者分離投票法」「バンドゥー教育法」「共産主義鎮圧法」「テロリズム法」等といった法律も更に登場し、ここからアパルトヘイト政策が成立した。
就業に関しては、「原住民建築労働者法」「原住民労働者法」「産業調停法」等といった法律も登場。黒人をはじめとしたカラードの人種が劣悪な環境で働かされたにも関わらず、白人は多い給料をもらい、手厚い保護を受け取っていた。1970年のデータからは、白人工業労働者は黒人の6倍、白人鉱業労働者は黒人の21倍の給料をもらっていたことが読み取れる。これを政府は「それぞれの民族が独自に発展すべき」という多文化主義的な思想で正当化していた。
居住に関しては、1913年時点で黒人が白人から土地を買収することができなくなっていたにも関わらず、「集団地域法」で居住区域が白人と更に分けられ、その後公共施設や公共車両などでカラードは白人と居住区域が分けられた。その後バンドゥースタン計画が立案され、バンドゥー自治促進法から民族ごとに自治区が設けられた。
教育文化に関しては黒人と白人の共学も禁止され、黒人のみの学校も登場した。アパルトヘイトに対して反発する団体がでてきた際には、弾圧する法がいくつか作られた。
廃止[編集]
1994年、全人種によって選挙が行われ、この法律は撤廃された。