ドイツ海軍装甲艦 アドミラル・グラーフ・シュペー

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アドミラル・グラーフ・シュペードイツ語: Admiral Graf Spee)は、第二次世界大戦前にドイツ海軍が建造したドイッチュラント級装甲艦の3番艦。艦名は第一次世界大戦で活躍したドイツ帝国海軍の提督マクシミリアン・フォン・シュペーに由来する。その特異な設計から「ポケット戦艦」の通称で知られる。

概要[編集]

ドイッチュラント級装甲艦は、第一次世界大戦後に課せられたヴェルサイユ条約の軍備制限(1万トン以下の排水量制限)内で、いかに強力な艦艇を建造するかという課題に対し、ドイツ海軍が打ち出した独自の解答であった。当時としては画期的な電気溶接の多用や軽量合金の使用により、条約排水量を厳守しつつ、28cm砲という当時の中巡洋艦では搭載不可能な大口径主砲を装備したことが最大の特徴である。

本級は、名目上は装甲艦に分類されたものの、その攻撃力は同時期の重巡洋艦を凌駕し、防御力もそれらよりも優れていたため、イギリス海軍などからは「ポケット戦艦」(Pocket Battleship)と呼ばれ、警戒された。しかし、一方で速力は低く、本格的な戦艦巡洋戦艦には対抗できないという弱点も抱えていた。

アドミラル・グラーフ・シュペーは、本級の3番艦としてヴィルヘルムスハーフェン海軍造船所で建造された。1934年6月30日に進水し、1936年1月6日に竣工した。

艦歴[編集]

1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、アドミラル・グラーフ・シュペー大西洋に派遣され、通商破壊に従事した。その目的は、連合国の海上交通路を混乱させ、イギリスの戦争遂行能力を低下させることであった。

グラーフ・シュペーは、その任務において極めて高い戦果を挙げた。開戦から約3ヶ月の間に、商船9隻(合計約5万トン)を撃沈または拿捕した。その行動は、連合国海軍に大きな脅威を与え、多数の艦艇がその捜索と追跡に投入された。

1939年12月13日、アドミラル・グラーフ・シュペー南大西洋ラプラタ川沖で、イギリス海軍の重巡洋艦エクセター軽巡洋艦エイジャックス軽巡洋艦アキリーズの3隻からなるイギリス艦隊と遭遇した。これが歴史に名高いラプラタ沖海戦である。

グラーフ・シュペーは当初、3隻の巡洋艦全てを撃破できると判断し、交戦を開始した。グラーフ・シュペーの28cm主砲は、イギリス巡洋艦に対して圧倒的な火力差を有しており、特にエクセターは甚大な損傷を負った。しかし、エクセターの決死の反撃と、エイジャックス、アキリーズの巧みな連携により、グラーフ・シュペーも損傷を被った。

この海戦の結果、グラーフ・シュペーは艦橋や燃料タンクに被弾し、特に燃料システムの損傷は、長距離航海を困難にするものであった。艦長ハンス・ラングスドルフ大佐は、修理と補給のため、中立国であるウルグアイモンテビデオ港に入港した。

モンテビデオに入港後、ラングスドルフ大佐は、連合国側の巧妙な情報戦に翻弄されることになる。イギリス側は、港外にグラーフ・シュペーを待ち構える多数のイギリス艦艇がいるという虚偽の情報を流し、グラーフ・シュペーの脱出を阻止しようとした。実際には、港外にはエイジャックスとアキリーズしかいなかったが、ラングスドルフ大佐は、さらに強力な艦艇が待ち伏せしていると信じ込まされた。

ウルグアイ政府は国際法に基づき、グラーフ・シュペーに対し72時間以内の出港を要求した。絶望的な状況に追い込まれたラングスドルフ大佐は、乗員の命と艦の完全な状態での捕獲を防ぐため、1939年12月17日、モンテビデオ沖合でグラーフ・シュペーを自沈させる決断を下した。

自沈後、ラングスドルフ大佐は本国への報告を終え、1939年12月19日にブエノスアイレスで自決した。彼の行動は、兵士としての名誉と責任を全うしたものであり、多くの人々に感銘を与えた。

構造[編集]

ドイッチュラント級装甲艦は、全長186m、基準排水量12,100トン(公称10,000トン)であった。主砲として28cm SK C/28 52口径砲を三連装砲塔2基に搭載し、合計6門を装備した。副砲は15cm単装砲8基、高角砲は10.5cm連装砲3基を装備していた。

機関には、当時としては画期的なディーゼルエンジンを採用し、最大速力28ノットを発揮した。これは、当時の多くの重巡洋艦に匹敵する速力であり、通商破壊任務において有利に働いた。

防御力は、主要部に80mmから100mmのクルップ装甲が施されており、同時代の巡洋艦と比較して優れていた。しかし、本格的な戦艦の主砲弾には耐えられない設計であった。

豆知識[編集]

  • アドミラル・グラーフ・シュペーの乗員は、自沈後、アルゼンチンに上陸し、その多くはブエノスアイレスに抑留された。彼らは戦争終結までそこで過ごし、一部は戦後もアルゼンチンに残り、ドイツ人コミュニティを形成した。
  • 1940年代には、グラーフ・シュペーの残骸の一部が引き揚げられ、スクラップとして売却された。その一部は、記念品として加工されたり、他の国の軍事技術の研究に用いられたとも言われている。
  • グラーフ・シュペーが自沈する際に流されたイギリス艦隊に関する虚偽情報は、イギリスの諜報機関による「キングストン作戦」と呼ばれる欺瞞作戦の一部であったことが、戦後に明らかになった。

関連項目[編集]

参考文献[編集]