ローマ皇帝一覧/セウェルス朝
この記事ではローマ帝国の歴代皇帝(ペルティナクスからアレクサンデル・セウェルスまで)を解説する。
ペルティナクス[編集]
- Pertinax
- 本名:プブリウス・ヘルウィウス・ペルティナクス
- 在位:193.1 - 193.3
126年8月1日に解放奴隷の家に生まれる。パルティアでの戦役で頭角を示し、ダキア総督として政界入りを果たした。その後も執政官などを歴任し、192年に時の皇帝コンモドゥスが暗殺されると、元老院や近衛隊の推挙で翌193年新皇帝に就任した。しかし、近衛兵への恩給支払いを渋ったことで反乱を起こされ、同年3月28日に暗殺された。享年66。
ディディウス・ユリアヌス[編集]
- Didius Julianus
- 本名:マルクス・ディディウス・セウェルス・ユリアヌス
- 在位:193.3 - 193.6
133年1月30日、裕福な上流貴族の家系に生まれる。193年3月、ペルティナクス帝を暗殺した近衛隊はあろうことか皇帝位を競売にかけた。ディディウスはこの帝位を落札し、めでたく即位したかと思われたが、当然そのような皇帝が受け入れられるわけもなく帝国各地で帝位請求者が相次いだ。混乱状態を鎮めるため、元老院はディディウスを僭称帝と決議し、同調した近衛隊に6月1日に殺害された。享年60。
セプティミウス・セウェルス[編集]
- Septimius Severus
- 本名:ルキウス・セプティミウス・セウェルス
- 在位:193.4 - 211
193年4月9日の生まれる。父方はカルタゴにルーツを持つ名門武人家系の出身だった。スペイン、シチリア島、シリアといった属州の総督を歴任し、軍隊との信頼関係を深めていった。193年3月、ペルティナクス帝が暗殺され、ディディアヌス帝がオークションで選出されるとこれに反発して蜂起。6月にローマ入城を果たして即位し、各地の帝位請求者を破って地位を安定させた。197年からパルティアとの戦争を開始し、首都クテシフォンを占領する大勝利を挙げた。講和条約でローマはティグリス川沿いまで領土を広げ、属州メソポタミアが設置された。208年、続いてブリタニア北部へ親征するが、痛風により211年2月4日に死去。享年64。息子のカラカラとゲタが後を継いだ。彼が創始したセウェルス朝は以後約40年に渡って続くことになる。
カラカラ[編集]
詳細は「カラカラ」を参照
ゲタ[編集]
- Geta
- 本名:ププブリウス・セプティミウス・ゲタ
- 在位:209 - 211
189年5月27日に生まれる。温厚で学問を好む性格であり、兄カラカラとは反りが合わなかった。209年に父セプティミウス・セウェルスにより兄と同時に共同皇帝に戴冠される。211年、父が死去すると兄との対立が激化。12月26日、カラカラとの面会中に刺客によって殺害された。享年22。ゲタの支持者はカラカラの命で軒並み粛清され、公文書等からゲタに関する一才の記録が抹消された(ダムナティオ・メモリアエ)。
マクリヌス[編集]
- Macrinus
- 本名:マルクス・オペリウス・セウェルス・マクリヌス
- 在位:217 - 218
165年頃、現在のアルジェリアで生まれる。彼の家は裕福ではなかったものの、法律などの基礎教育を受けることができた。マクリヌスは法律家としてのキャリアを進め、セプティミウス・セウェルスの時代にローマの行政官、カラカラの時代に近衛隊の司令官に任命された。217年にカラカラ帝が暗殺されると、軍隊の支持を得たマクリヌスが新たな皇帝として即位した。マクリヌスは財政改革に乗り出したが、軍の予算を削減したため不満を買い、翌218年、シリアでヘリオガバルスを担いだ反乱が勃発。皇帝軍は敗北し、マクリヌスは敗走中部下に裏切られて殺された。
ディアドゥメニアヌス[編集]
- Diadumenian
- 本名:マルクス・オペッリウス・アントニヌス・ディアドゥメニアヌス
- 在位:217 - 218
208年9月14日に生まれる。マクリヌスの嫡男で、217年に父がローマ皇帝に即位すると共同皇帝に封ぜられた。しかし、翌年マクリヌスともども陣中で殺害された。享年10。
ヘリオガバルス[編集]
- Elagabalus
- 本名:ウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌス
- 在位:218 - 222
203年3月20日、現在のシリアの神官 の家系に生まれる。217年、カラカラ帝が暗殺されマクリヌスが帝位を奪うと、ヘリオガバルスの祖母かつカラカラの親戚のユリア・マエサは自身の孫を即位させようと企み反乱を起こした。軍隊からの支持を得たヘリオガバルス軍は連戦連勝であり、218年にマクリヌス父子を敗死させ、皇帝への即位を宣言した。元老院も最初は反対していたが、後に渋々承認した。
ヘリオガバルスは美しい容姿であったが、今で言うトランスジェンダーだったとされる。女装して夫を作り、去勢を望んだ。さらに、自ら娼婦として風俗街で働いたという逸話もある(流石にこれは後世の創作と思われる)。しかし、多神教のローマを自身が信奉する太陽神の一神教化しようとしたことで反発を買い、222年3月11日、近衛隊に反乱を起こされ、男性器を露出させられるなどの辱めを受けた後に処刑された。享年18。養子にしていたアレクサンデル・セウェルスが後を継いだ。
アレクサンデル・セウェルス[編集]
- Severus Alexander
- 本名:マルクス・ユリウス・ゲッシウス・バッシアヌス・アレクシアヌス
- 在位:222 - 235
209年に生まれる。222年、従兄弟ヘリオガバルス帝の人望の無さに危機感を感じた祖母ユリア・マエサによって担ぎ出され、ヘリオガバルスが廃位・殺害されたことで皇帝に即位した。彼自身は温厚な性格だったが、それ故に母ユリアの専横を許す事態となった。235年、ガリアへの侵略を繰り返すゲルマン人と金銭を払って講和しようとしたが、怒った軍がマクシミヌス・トラクスを中心に反乱を起こした。アレクサンデルは母諸共陣中で殺害され、トラクスが新たな皇帝に推挙された。これによりセプティミウス・セウェルス以来続いてきたセウェルス朝が断絶し、ローマは「軍人皇帝時代」「3世紀の危機」と呼ばれる混乱時代に突入する。